大判例

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大阪高等裁判所 昭和30年(う)1369号 判決 1956年4月26日

控訴人 原審検察官

被告人 野山洋子

検察官 門司恵行

主文

原判決を破棄する。

本件を大阪地方裁判所に差し戻す。

理由

検事藤田太郎の控訴趣意について、

原判決は、被告人が本件麻薬注射液を覚せい剤であると誤信して所持していたものであるから麻薬所持の故意を欠き罪とならない、というのである。しかしながら、軽い甲罪の犯意を以て重い乙罪の事実を実現した場合において、両者その罪質を同じうするときは、甲罪の既遂を以てこれに問擬すべきものと解するを相当とするところ、右覚せい剤の所持は覚せい剤取締法第四一条第一項第二号に該当し、その刑は五年以下の懲役又は十万円以下の罰金であり、麻薬の所持は麻薬取締法第六四条第一項に該当し、その刑は七年以下の懲役であつて、この二つの法条について罪質の異同を検討すると、両者は共にその中毒性習慣性のため個人並に社会の保健衛生に危害を及ぼすことの多い薬剤について濫用を取締ろうとするものでその目的を同じうし(覚せい剤取締法第一条麻薬取締法第一条参照)、且つ、その取締方式においても極めて相似たものがあるのであつて、両者別異の法律を以てこれを規定したのは単に沿革的理由によるにすぎないのであり、また、その刑に軽重あるのはその毒性の程度の差によるものというべく、両者がその罪質を異にするものと解することができない。従つて、原審認定の前記事実に対しては軽い覚せい剤取締法第四一条第一項第二号を以て処断すべきものといわねばならない。しかるに、原審が卒然これを以て罪とならないものとしたのは法令の適用を誤つたものというの外なく、この誤は判決に影響を及ぼすことが明かであつて、論旨はその理由があるから、刑事訴訟法第三九七条第三八〇条第四〇〇条に則り原判決を破棄し、訴因等についてもなお適当な調整を試み被告人のため十分な防禦の機会を与えるため、これを原審に差し戻すを相当と認め主文のように判決をする。

(裁判長判事 万歳規矩楼 判事 梶田幸治 判事 井関照夫)

検事藤田太郎の控訴趣意

原審判決は、「被告人は法定の除外事由もなくして昭和三十年三月二十六日大阪市西成区山王町二丁目十五番地浦部方に於て塩酸ヂアセチルモルヒネを含有する麻薬注射液〇、五ccを所持していたものであるとの公訴事実に対し、一、警察技手堤正雄作成の理化学鑑識結果復命書、一、司法巡査福永良邦外一名の作成した現行犯人逮捕手続書及び差押調書、の各記載によれば被告人が公訴事実の通り麻薬注射液を所持していたことは認められるが当時被告人が該注射液を麻薬であると認識して所持していたかについては何らの証拠がない。却つて被告人は当時該物件を覚せい剤なりと思つて注射しようとしていたことが被告人の警察官及び検察官に対する各供述及び当公廷に於ての供述により認められる。斯のように覚せい剤についての認識のもとに麻薬取締法違反の犯罪を敢行しても未だ同罪について故意ありと云うことは出来ない。従つて刑事訴訟法第三百三十六条を適用して被告人は無罪との判決をした。」のであるが右判決は刑法第三十八条第二項の解釈を誤り罪となるべき事実を無罪とした違法の判決である。

第一、本件認定事実は刑法第三十八条第二項の所謂事実の錯誤に関するものである。

刑法第三十八条第二項は事実の錯誤に関連して唯重きを知らざる者がその重きに従つて処断せらるることなき旨を規定するに止り全くその内容は消極的なものでそれ以上積極的意義を有するものではない。昭和二十三年十月二十三日の最高裁判所第二小法廷の判決は公文書無形偽造の教唆を共謀したが公文書有形偽造の事実を生じた場合には公文書有形偽造の教唆の責任を負うべきものとしているのであつて(昭和二十三年(れ)六五二号公文書偽造教唆偽造公文書行使幇助、収賄被告事件刑集二巻十一号一三八六頁)従来学説判例共に少くとも同一構成要件の範囲内での錯誤は故意を阻却しないことは認めるのであるが、構成要件を異にするとなると問題はそう簡単でないのである。而も本判例は公文書の無形偽造と有形偽造とは犯罪の構成要件を異にするもその罪質を同じくするものであり且つ法定刑も同じであることがその理由づけとなつているのである。然らば果して構成要件を異にする場合もやはり事実の錯誤の問題を考え得るとして判例の理由づけとする罪質を如何に解すべきか、二つの構成要件として別条に規定されているが本質的には同じ類型的範疇に属する二つの態様又は表現形式といつたようなものである場合もあり得るそうした場合にその二つの構成要件は「罪質」を同じくするものと謂ふべきではないか更に進んで罪質の同一性を決定するための標準とも謂うべきものを考えてみると小野清一郎博士も、説かれる如く、(イ)法益の同一を必要とすること、(ロ)法益を侵害する行為のしかたが同一であること、(刑事判例評釈集第十巻昭和二十三年度(下)四四頁)がその基準として必要にして十分ではないかと考えられる。そうだとしてなお概念的に明らかにしておかなければならないのは法益をいかに解するかであるが大体において内容的及び実体充実的法益概念(或は実体的範疇的法益概念)と形式的及び方法的法益概念(或は機能的目的論的法益概念)との二つの異つた見方に集約し得るのであつて前者は法益をもつて犯罪によつて侵害され又は危殆ならしめられるところの法規によつて保護された生活財法規の保持しようとする状態であるとし後者は箇々の刑罰法規のうちに立法者によつて認められたところの最も簡単な形式に要約された目的であり畢竟それは立法目的を指すとするもので一は古典的自由主義的な考え方と謂えるし他は法規の解釈に当つてはこれを形式的にではなくその目的に従つて解釈されなければならないとのイエーリング以来の目的法学利益法学の立場よりする考え方に拠るものであつて斯る二つの立場を基盤として通説は法益を「法的に保護された利益」と定義し観念している。結局罪質法益等の諸概念を右のように観念した上で考えられることは叙上の通り構成要件を異別にするも罪質法定刑にして同種に係る場合は事柄の当然としてやはり事実の錯誤は考えられなければならないことになるのであつて麻薬取締法第一条は「この法律は麻薬が医療及び学術研究以外の用途に使用されることによつて生ずる保健衛生上の危害を防止するためその輸入輸出製造製剤譲渡譲受所持等について必要な取締を行うことを目的とする」と規定し覚せい剤取締法第一条は「この法律は覚せい剤の濫用による保健衛生上の危害を防止するためその輸入所持製造譲渡、譲受及び使用に関して必要な取締を行うことを目的とする」と規定していて共にそれは「保健衛生上の危害を防止するため」のもので法益は同一であり且つ法益を侵害する行為のしかたは輸入製造譲渡、譲受所持、施用(覚せい剤については使用)等これ亦類型にして全く同一であつて前項所論のように罪質にして同一と謂うべきである。そうだとすると前項掲記の判例の理論づけになつている罪質の同一及び法定刑の同一との要件中法定刑の問題が同一でないとして残るのであるが凡そ法定刑は普通刑法に付て論ずる場合は比較考量を為すも何等無理を生じないがこれを所謂取締法規に付て考える場合は単純にその長期短期若くは刑の種類を以て比較するのみではその異同を論じ得ない。即ちそれはその時の社会事情に基き取締りの徹底を期する目的が最も強く作用する性質のものであるからで而もその刑期の如きは易々として変改される事情にあり従つて本件の場合もそうであるが法定刑の同一は要件として考えられ得ないものと謂うべきである。此の点は自然犯、法定犯の概念定立の問題に更には進んで刑法の根本理論に及ばなければならないものであるが故に茲に論ずるを差し控えるが何れにしても本件については右の如き結論を生ずる。要之麻薬取締法と覚せい剤取締法とはその罪質を同一にするもので縦し法域を全く異にし構成要件的に異別であるとしてもやはりその認識と事実との相違を問題とする本件は事実の錯誤に関するものとして論ぜらるべき筋合いのものである。

第二、本件認定事実は刑法第三十八条第二項を適用しその認識せる軽い罪について処罰さるべきものである。前項所論の通り本件は飽くまでも事実の錯誤に関するものとして判断さるべき案件にして而もその適用に当つては規定の立て方に従い冒頭述べたようにその消極的意義通りに解しそれは何処までも重きに従つて処断することを得ないが尠くとも軽き罪の範囲に於てはその限りが処断さるべきであつて本件の場合に就いて考えるならば覚せい剤との認識のもとに敢えて本件に及んだ以上認識せる覚せい剤の刑期範囲内では当然処断されなければならないと解する。況んや覚せい剤取締法と麻薬取締法は前掲第一後半記述の通り異種の犯罪とみるべきでなく、同種の犯罪とみるべきが至当であるにおいておやである。

以上所論に従い被告人の本件所為は刑法第三十八条第二項の制限のもとに覚せい剤所持犯として処断せらるべきものであるに不拘簡単に「覚せい剤についての認識のもとに麻薬取締法違反の犯罪を敢行しても未だ同罪の故意ありということは出来ない」として無罪を言渡したのは、明かに法令の解釈適用を誤り右誤は判決に影響を及ぼすことが明かであると確信するので刑事訴訟法第三八〇条により控訴を申立てた次第であるから何卒刑訴第三九七条一項、第四百条但書により破毀自判されたい。

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